1. 1957年~1984年のハーレーの歴史

1957年~1984年のハーレーの歴史

ネイキッドタイプ

民間からの注文が増えバイクが一躍国民的な乗り物に

もともと警察用の車両として多くのバイクを出荷してきたハーレー・ダビッドソンは、戦時中にも軍用車両として多くのバイクを製造販売しました。

1945年8月に太平洋戦争が終わり、戦争需要が一旦落ち着くとアメリカ国内では民間からのバイク需要が一気に高まりました。
同時に冷戦の開始やベトナム戦争の開始など軍用に使用されるバイク需要も依然として高く、ハーレー・ダビッドソンはこの頃非常に数多くの車種を開発していくことになります。

なぜ戦後急に民間のバイク需要が高まったかというと、従軍した兵士が戦地で使用したバイクが非常に性能よく、本国に帰ったら自分でも買いたいと思ったからです。
ただし戦後すぐの時期は材料不足が続いており、ようやく民間で一般的にバイクが購入できるようになったのは1947年になってからです。

1940年台は創業したグループが高齢のため引退をした代替わりの時期であり、ハーレー・ダビッドソン社の第二世代の開始という時期でもありました。

当時はバイクの性能を世間にアピールする方法としてレースに参加するという方法が最も一般的であったこともあり、新型バイクの開発はかなりレースでの走行性を意識したものとなっていました。

一方でそれまでは機能性重視の無骨なデザインをしていたバイクに流線型を取り入れるようになったのも1940~1950年代くらいからのことで、この頃からハーレーらしいネイキッドタイプのバイクモデルの原型が作られました。

イージー・ライダーにより世界的に有名バイクメーカーに

次にハーレー・ダビッドソン社の大きな転機となったのが1960年代位後半~1970年代に入った頃です。
1970年代はAMFという大手機械メーカーと業務提携を結ぶことにより、一時的にではありますがハーレー・ダビッドソン社は傘下企業となった時代です。

そのため当時販売されていたバイクには「Harley-Davidson」のロゴの脇に必ず「AMF」という文字がつけられています。
しかしこの時代に生産体制の拡充と近代化が行われてもおり、大量生産にも耐えられるバイクメーカーとして成長をしました。

世界的にハーレー・ダビッドソンの名前を知らしめることになったのが1969年の映画「イージー・ライダー」の封切りで、この映画が日本にも伝わったことで一躍大型バイクへの世間的イメージがアップしました。

1981年3月3日には業務提携をしていたAMFと決別をするという宣言をしており、「鷲はひとり舞い上がる」をキャッチフレーズに地元に凱旋パレードをして戻りました。
それから社内体制を大きく立ち直し、消費者の満足度を高めるための組織である「ハーレー・オーナーズ・グループ」も結成されました。